「マスターマスターマスタ――――――!」
スライドドアの開閉音すら掻き消す金切り声が部屋いっぱいに響き渡り、うたた寝していたぼくはベッドから跳ね起きた。
飛び込んできたのは、白と紫のコンバットスーツに身を包んだ小柄な女の子だった。銀色のショートヘアを大きく揺らしてベッドの前で急停止すると、両拳を体の横で握り締め、深々と息を吸い込み――。
「マ ス タ ー、大 変 な の で す !!」
とフルボリュームで叫んだ。
女の子は、人間ではなくアンドロイドで、名前は《レイ》。A290-00という個体番号の末尾から取ったのだが、ぼくや周囲のプレイヤーたちは機種名である《アファシス》と呼ぶことが多い。
「どうしたの、アファシス?」
たぶん、どこかのフィールドで事前予告なしのゲリライベントが始まったか、グロッケンの市街地に新しい食べ物屋がオープンしたかのどっちかだろう――と思いながらそう訊ねたが、返ってきた言葉は予想を果てしなく裏切るものだった。
「でっかいおじさんです!!」
「………………」
ベッドに座ったまま周囲を見回したが、現実世界なら二十畳以上もありそうな広い部屋――ぼくとアファシスの《ホーム》には、もちろんぼくらしかいない。まさか、コアプログラムに不具合が発生したのか……という危惧を抱きつつ、さらに訊ねる。
「おじさんって、何……?」
「えーと、えーと……」
アファシスはもどかしそうに何度か口を開閉してから、右手を伸ばしてぼくの左手を掴んだ。
「見ればわかるのです! 一緒に来てください、マスター!」
そう言って手をぐいぐい引っ張るアファシスに、「わかった、わかったから……」と答え、ぼくはベッドから降りた。
手を引っぱられるまま小走りに部屋を横切り、スライドドアから共用廊下に出る。右方向に少し進むとエレベーターホールがあり、てっきり一階に降りるものと思ったが、アファシスが押したのは上向きの三角形だった。
すぐに箱が到着し、ドアが開く。乗り込むと、アファシスは大型タッチパネルの右上にある【R】の文字に触れた。過去に数回しか押した記憶のない、屋上行きのボタンだ。軽い加速感とともに、箱が上昇し始める。
この建物は、数百戸ものプレイヤーホームが詰め込まれた、現実世界で言うところのタワーマンションのような施設で、フロアの数は二百を超える。エレベーターが停まり、扉が開くと、赤っぽい陽光とともに冷たく乾いた風が吹き付けてきて、ぼくは両目を細めた。
屋上は、植栽一本、ベンチ一脚たりとも存在しない、ただ広いだけの空間で、しかもへり縁には手すりもない。街の中ではHPが保護されているので、落っこちても死にはしないけれど、心臓が口から飛び出しそうになる。グロッケン周辺の荒野フィールドは、落下のリスクを負ってまで眺めるほどの景色ではないし、そもそも総督府の展望台のほうがこの建物より高い。
ゆえに、普段は誰もいない場所――のはずなのに。
「なんか、いっぱいいるね……」
屋上の西の端に、こちらに背を向けて並ぶ数十人のプレイヤーたちを眺めながらぼくがそう呟くと、アファシスも勢いよく頷いた。
「皆さんきっと、でっかいおじさんを見にきたのです!」
「だから、そのおじさんって誰なの?」
「わたしたちも行きましょう!」
再び手を引っ張られ、プレイヤーの列の右端に並ぶ。
この世界――VRMMO-RPG《ガンゲイル・オンライン》のワールドマップは、中央にある首都《SBCグロッケン》を五つのエリアマップがぐるりと取り巻く構造になっている。南西には《砂に覆われた孤島》、南東には《残影の荒野》、北東には《忘却の森》、真北には最新のアップデートで実装されたばかりの《ホワイトフロンティア》、そして西には《オールドサウス》。
プレイヤーたちが無言で眺めているオールドサウスは、広大な草原の真ん中に旧時代の都市廃墟がそびえる中級者向けのマップだ。グロッケンの真西にあるのになぜ《サウス》なのかは永遠の謎だが、サービスインから一年半が経過した現在では隅から隅まで探索し尽くされて、このビルにプレイヤーホームが買えるレベルのプレイヤーたちが、いまさら見るべきものなど何も……。
「…………え、あれ……なに?」
ぼくが呟くと、アファシスがしかつめらしい顔で応じた。
「でっかいおじさんです」
その言葉を聞くのはこれで三度目だ。いままでは、市街のどこかに身長が三メートルくらいあるおじさんアバターのプレイヤーが現れたのかな? くらいにしか思っていなかったけれど――いま、ぼくが見ているものは、《でっかい》という形容詞一つではまったく足りない。
オールドサウスエリアの中央にそびえる都市廃墟、その名もオールドサウスシティの奥に、途轍もなく巨大な人影がぼんやりと浮かび上がっている。
黄色がかった日差しを受けて陽炎のように揺らめく人影は、廃墟の一番高いビルよりも三倍以上大きく見える。ビルが確か三百メートルほどだったから、頭のてっぺんまでの高さは実に千メートルにもなる計算か。
普通の人間サイズなら細身と思えるだろう直線的なシルエットだが、あまりにも大きいので華奢な印象はまったくない。全身は鈍い金色に輝く鎧で覆われ、頭には複雑な形の冠を被かぶり、胸まで届く長い顎髭を垂らしている。足許は廃墟のビル群の陰になり、頭頂部は薄雲に紛れてよく見えないが、少なくとも男性であることは間違いなさそうだ。
「……確かに、でっかいおじさんだね」
ぼくの言葉に、アファシスは「だからそう言ったのです!」となぜか少しばかり自慢そうに胸を張った。
どうやら、アファシスのコアプログラムに不具合は発生していなかったらしい。となると、あのおじさん、いや巨人はいったい何なのか。
いままでこのGGOで遭遇した最大サイズのエネミーは、《リエーブル事件》の時にグロッケンを襲撃してきた多脚戦車《ベヒーモスMT-04》だと思うけれど、あれでもせいぜい全長二十メートルといったところで、いまぼくらが見ている黄金巨人と比べればミニカーにも等しい。これまでもいろいろと理不尽なイベントやクエストに巻き込まれてきたけれど、今回は不条理のレベルが一つ二つ――いや、十くらい違う気がする。
「ねえアファシス、あのおじさん、いつからあそこに立ってるの?」
小声で訊ねると、アファシスは少し首を傾げてから答えた。
「正確な時間は不明ですが、約九分前に、ゲームシステムに最大規模の負荷がかかった形跡があります」
「九分……そのあいだ、ずっとあそこに立ってただけなのかな……」
「そのようだな」
と声を掛けてきたのは、ぼくの左側で彼方の巨人を眺めていた男性プレイヤーだった。モヒカンヘアを真っ赤に染め、水中メガネのようなゴーグルを装着した男の顔には見覚えがある、というかフレンド登録している相手だ。
「闇風さん、こんにちは」
「こんにちはなのです!」
ぼくとアファシスが挨拶すると、男は軽く会釈してから続けた。
「オレは五、六分前からここであれを観察しているが、いまのところ移動する様子はないな。現地に飛んだ連中からの情報だと、あれが立っているのはオールドサウスシティの真西にある峡谷の向こう……つまりワールドマップの外側らしい」
「……もう近くまで行ってる人たちがいるんですね」
「ダインとか夏侯惇とか、物見高い連中がな」
闇風が口にしたのは、どちらも《バレット・オブ・バレッツ》上位常連の有名プレイヤーの名前だ。それを言ったら闇風自身がBoBで準優勝したこともあるGGO有数の実力者だが、本人に偉ぶったところはまったくない。
「闇風は行かないのですか?」
アファシスにそう問われた闇風は、モヒカン頭に似合わない洒脱な仕草で肩をすくめた。
「もしあれがイベントエネミーなら、HP量は十億や二十億じゃきかないだろうからな。参加するのはもう少し情報が集まってからでも遅くないさ」
「まあ……そうですね」
ぼくはこくりと頷く。GGOは大型アップデートのたびに新しい武器が追加されてきたので、現在の最強武器をとことんまで強化した場合、相手がエンドコンテンツ級のボスエネミーでも一分あたりの余ダメージは軽く一千万を超える。あの巨人が闇風の言うとおりイベントエネミーなら、数百人がかりで数十分撃ちまくっても倒せないくらいの設定になっているだろうから、HP量は……咄嗟に暗算できないほどの数値であることは間違いない。それ以前に、マップの外側に立っているなら、そもそも近づくことさえできない。
だったら、もう少しここで見守っていようかな……と思ったその時。フレンドメッセージの着信を知らせるアイコンが視界右側で点滅し、ぼくは反射的にそれを叩いた。
【シティのドームで待ってるからすぐ来て!】
という圧が強めなメッセージの差出人は、クレハ。ぼくの現実世界での幼馴染で、ぼくをこのGGOに誘ってくれた人でもあるので、基本的には頭が上がらない。
「えっと……呼び出されたので、ちょっと行ってきます」
闇風にそう断りを入れると、ぼくはファストトラベルするためにワールドマップを開いた。