「長いこと待たせちゃって悪いな……もうすぐ来ると思うんだけど……」
五度目か六度目かの謝罪を口にするキリトに、「ぜんぜん大丈夫だから、気にしないで」と答えると、ぼくはピニャコラーダを一口含んだ。クリーミーなココナツと、爽やかなパイナップルの風味を楽しんでから飲み下すと、ベースのラム酒が喉をつんと刺激する。もちろん、全ては仮想の味覚だ。
SBCグロッケンで三番目に高いビルの屋上にあるこのルーフトップバーは、眺めは最高だし料理も飲み物も美味しいのに、高難度の連続クエストをクリアしないと入店パスが貰えないので休日でも基本的に閑散としている。ぼくたちは街の西側を一望できるソファー席に陣取り、もう一時間もお喋りしているけれど、NPCのマスターはまるで気にする様子もない。
顔ぶれは、ぼく、アファシス、クレハ、キリト、アスナ、そしてユイの六人だけ。巨大ボス撃破の祝勝会がこのあと夕方五時から総督府のイベントホールで開催される予定で、そこにはイツキやツェリスカも顔を出すと言っていたけれど、その前にちょっと話さないかとキリトに誘われたのだ。
ちょっとの予定が一時間もあれこれ駄弁っているのは、参加するはずの七人目がまだ現れないからだ。どうせ祝勝会までダイブしっぱなしの予定だったからぼくはぜんぜん構わないのだけれど、キリトが何度も謝るので逆に申し訳なくなってくる。
同じことを思ったのかどうかは定かでないけれど、アファシスがキリトの前に、自分が頼んだ料理の皿を押しやりながら言った。
「キリト、このシンクロニサーダってやつ美味しいですよ! 一つあげます!」
「あ……ありがとう。じゃあ、遠慮なく……」
キリトが、シンクロニサーダ――どうやらトルティーヤでハムとチーズを挟んで焼いたものらしい――を一つ取り、ぱりっと音を立ててかじった、その時。
エレベーターの扉が開き、プレイヤーが一人飛び出してきた。
「いやあ、お待たせしちゃって申し訳ない。前の予定が押しちゃってね」
そう言いながら足早に近づいてくるのは、たぶんぼくが会ったことのないプレイヤーだった。淡い水色の長髪を後ろでくくった、背の高い男性。お洒落な眼鏡を掛けて、GGOでは珍しいローブのような外套を着ている。HPバーに表示されている名前は【ChrysHeight】――どう読むのかな、という疑問は二秒で解消した。
「遅いぞ、クリスハイト!」
キリトがしかめっ面で呼びかけると、男性は首を縮めつつ手刀を切るという勤め人ライクな仕草を披露しながらカウンターに向かい、マスターにジンリッキーを注文してからテーブルにやってきた。空いていたキリトの隣に滑り込み、ふうっと息を吐く。
「いや、すまない。僕が頼んでセッティングしてもらったのに」
再び謝罪する男性――クリスハイトを、キリトがじとっと横目で睨む。
「本当だよ、ここの払いはあんたが持ってくれよな」
「ええっ、僕、キャラクターを作ったばかりで持ち合わせが……」
「だったら貸してやるけど、利息は十日で十割だぞ」
「そ、そりゃ暴利が過ぎるよ。トイチどころじゃない、トジュウ? いやトット……?」
息の合ったハイテンポなやり取りにぼくたちは唖然とし、アスナがくすくす笑う。
そうこうしているうちにジンリッキーのグラスが届き、クリスハイトはそれをごく、ごくと半分以上も飲んでから再び長く息を吐いた。
グラスを置くと、向かいに座るぼくを見る。眼鏡の奥の両目は一見柔和そうなのに、生身のぼくの脳内まで見透かしてくるような鋭さも隠し持っていて、思わず背筋を伸ばしてしまう。
クリスハイトは、そんなぼくの緊張を解そうとするかのように微笑むと、ぺこりと一礼した。
「きみが、あのイレギュラーボス……《ユナイタル・キング》を倒してくれたんだね。ありがとう」
ぼくとクレハ、そしてアファシスは同時に首を傾げた。物怖じしないアファシスが、不思議そうに問いかける。
「クリスハイト、それはでっかいおじさんの正式呼称なのですか? システムには登録されていませんでしたが」
「ああ、正式名っていうわけじゃないよ。いつまでもでっかいおじさんと呼び続けるわけにもいかないから、コードネームをつけたんだ。《単一の王》みたいな意味かな、ほとんど全てのザ・シード連結体に現れたわけだからね」
「なるほど、了解したのです。これからはわたしもユナイタル・キング、あるいは短縮してユナキンおじさんと呼びます!」
それは短縮できているのかな? とぼく以外の人たちも思っただろうけど、野暮な突っ込みを入れる者はいなかった。
ぼくは気を取り直し、クリスハイトに向き直って言った。
「確かに弱点を破壊したのはぼくとアファシスですけど、作戦を立てたのはキリトたちだし、協力してくれた人たちのバフがなければとてもあんなダメージは出せませんでしたから」
途端、横からキリトが口を挟む。
「いやいや、ユナキンに吹き散らされた時、俺は百パー失敗したと思ったからな。でもきみは慌てることも諦めることもせずに、UFGを使って射撃ポイントまで辿り着いた。あの状況でなかなかあそこまで冷静に動けるものじゃないよ」
「地上に戻った途端に、心臓が口から出そうになったけどね」
ぼくの答えを聞いたアスナやユイ、クレハが楽しそうに笑う。ぼくも少しだけ口許を緩めてから、すぐに引き結んでキリトを軽く睨む。
「でも、酷いよキリト。ぼくとアファシスを安全に着地させる方法を考えてなかったなんて」
「いやあ、その件はマジ悪かった。回収役を決めておかないとって、頭にメモってはいたんだけどな……」
「わたし、てっきり誰かに頼んであるものだと思ってたよー」
アスナが呆れ顔でそう言うと、ユイもすかさず追随する。
「パパの脳内メモリーは、記録された情報の約三割が十分以内に揮発してしまうのです!」
なかなか辛口のコメントに、今度はキリト以外の全員が笑い声を上げる。まあ、死なずに着地できたのだからこれ以上文句を言うつもりはないけれど、その過程に少しばかり問題がある。シリカとセブンが風魔法で作ってくれたクッションだけでは減速しきれず、最後はアファシスともどもイツキにキャッチしてもらうはめになったのだ。これでまた、彼への借りが増えてしまった。
ピニャコラーダをもう一口飲んで頭をリセットし、再びクリスハイトを見る。
「それで……クリスハイトさんは、どこかのVRMMOの運営さんとかなんですか?」
「おや、どうしてそう思ったんだい?」
「さっき、ユナイタル・キングのことをイレギュラーボスって呼びましたよね。いまの段階でそう言い切れるのは、中の人だからかなって思ったんですけど」
「ああ……確かに、あれが正規のゲリライベントだったのかどうかはまだ公式にはアナウンスされていないからね」
得心したように頷くクリスハイトに、クレハが待ちきれない様子で問いかける。
「で、実際のところはどうだったんですか?」
「まず、僕はどこかのVRMMOの運営スタッフだというわけではないよ。ただ、ザ・シード連結体を含むフルダイブ・エコシステムのリサーチみたいな仕事をしていてね、それで今回の事件についても調べているんだ」
「リサーチじゃなくてインスペクションだろ」
キリトの指摘に、クリスハイトはにやっと笑っただけで言葉を続けた。
「で、いまの質問に答えると、現状解っている範囲ではあのイベントは正規に企画されたものではないね。そんなことをするには、連結体に加わっている全てのVRMMOが秘密裏に協力する必要があるわけだが、GGOを運営しているザスカーや、ALOを運営しているユーミルを含めてそういう情報はキャッチできなかった。むしろどの運営企業も大混乱で、事後処理にてんてこ舞いという感じだよ」
「……じゃあ、誰かが……もしくは私的な集団がザ・シード連結体をハッキングしたってことですか?」
眉をひそめながらアスナが訊ねる。ぼくも、残る可能性はそれしかないと思ったけれど、クリスハイトは今度も首を横に振った。
「その痕跡も見当たらない。ザ・シード連結体は、それを構成する全VRMMOによる巨大な分散型システムになっていて、どれか一つのサーバーをハッキングしても……あるいは悪意を持ってシステムに接続しても、それだけでネットワーク全体を乗っ取るなんてことは不可能だ。だいたい、仮にハッキングに成功したとして、やることがあれかい? ゲーム内通貨を円やドルに換金して大儲けすることだってできたのに」
「…………」
エンチラーダをぱくぱく食べているアファシス以外の全員が口を閉ざす。天才的な愉快犯という可能性もゼロではない気がするけれど、その場合は何らかの形で犯行声明が出るはずだ。
クリスハイトはグラスの縁に刺さっている櫛切りライムを手慣れた仕草で搾ると、残りのジンリッキーを飲み干した。いまになって美味しさに気付いたように空のグラスを眺めてから、それをそっとコースターに戻す。
キリトも自分のモヒートを一口飲んでから、少しだけ口調を変えて訊ねた。
「……きく……じゃなくてクリスハイト、いまの話と、あんたがユイにやらせたことはどう関連するんだ?」
「その言い方はちょっと人聞きが悪くないかい……正確には、キリト君経由でお願いしたんだよ」
「な、何をやらせたんですか……?」
少しばかり引き気味な口調と表情でクレハが訊くと、クリスハイトではなくユイ本人が答えた。
「私は、あの事件が起きているあいだ、パパのアミュスフィアをフルモニターしていたのです。通信はもちろん、メモリやストレージ、CPU、そしてBMI素子マトリックスの動作状況まで」
「へ、へえ……、いないと思ったらそんな大変な仕事してたんだね。お疲れさま!」
クレハにねぎらわれたユイは、面映ゆそうに「えへへ」と笑うと、両手でカップを持ち上げてホットミルクをこくんと飲んだ。珍しく対抗心が芽生えたのか、アファシスが「わたしもマスターのアミュスフィアをモニターしたいのです!」などと言い出すので、「そのうちね」と宥めて再びユイを見る。
カップを下ろしたユイは、ちらりとキリトを見てから再び口を開いた。
「結論から言うと、あのイベントフィールドにいるあいだ、パパのアミュスフィアは通常なら最大でも七割ほどしか作動しないBMI素子マトリックスが、九割以上作動していました。アミュスフィアの出力ではそれでも脳への危険は一切ありませんが、異常な状況だったのは確かです」
「あ、あの……BMI素子マトリックスって?」
耳慣れない単語にぼくがそう訊くと、ユイは利発そうな黒い瞳を瞬かせてから笑顔で教えてくれた。
「BMIというのは《ブレイン・マシン・インターフェース》のことで、アミュスフィアの内側に敷き詰められた、ユーザーの脳に情報を与えたり読み取ったりするマイクロデバイスの集合体をBMI素子マトリックスと呼んでいます」
「なるほど……それが普通よりいっぱい動いてたってことだね」
そう応じたものの、実際にキリトのアミュスフィアで何が起きていたのかまでは想像が及ばない。いや――それよりも。
ぼくが感じた疑問と同じことを、アスナが口にした。
「ねえユイちゃん、それってキリトくんのアミュスフィアだけで起きてた現象なの? それとも……」
「はい、トラフィック増加量からの推測ですが、あのフィールドに移動した全てのプレイヤーのアミュスフィアで、まったく同じ現象が発生していたと思われます」
「ええっ、あたしのも!?」
クレハが視線を上向けるが、もちろん生身の自分が被っているアミュスフィアが見えたりはしない。
再び訪れた沈黙を、クリスハイトが落ち着いた声で破った。
「ちなみにユイくん、素子マトリックスの活性は受け側と送り側、どっちのほうが大きかったんだい?」
「圧倒的に受け側です」
「……つまり、普段は読み取る必要のない情報まで読み取っていたということか」
そう呟くと、クリスハイトはテーブル上で両手の指を組み合わせ、そこにほっそりした顎を乗せた。眼鏡のレンズに午後の日差しが反射して、表情が読み取れなくなる。
やがて、キリトがごく小さな声で呟いた。
「あのフィールドにいるあいだも、アバターの反応速度はいつもと変わらなかった。てことは、追加で読んでいたのは運動命令じゃない。思考、感情……それとも……」
キリトの口が、声を出さずに「きおく」と動いた気がしたけれど、確信は持てなかった。
ぼくは顔の向きを変えて、細い手すり越しにGGO世界を眺めた。
淡い陽光に照らされたオールドサウスエリアは、以前と何ら変わりなく、薄い砂塵を幾筋もたなびかせている。まだ一日しか経っていないのに、あの騒動が単なる白昼夢だったようにも思えてきて、ちらりと自分の手を見る。掌には、ボス――ユナイタル・キングの金冠めがけて《クイックショット》を撃ち込んだ時の反動が、まだ少しだけ残っている。
「そう言えば……」
顔を上げたキリトが、まっすぐぼくを見て言った。
「俺、あのあとすぐ落ちちゃったからまだ知らないんだけど、結局報酬って何だったんだ? 確か、冠を壊したプレイヤーは全てを手にする、とか言ってたよな?」
「あー……」
隣のクレハと、斜め向かいのアスナが漏らしたくすくす笑いを聞きながら、ぼくは答えた。
「実はね、ぼくもキリトに謝らなきゃいけないことが……」
(終わり)